敗戦のもたらした進歩主義的風潮

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し連合軍に無条件降伏、以降1952年までG.H.Q.の統治下に下ることとなるが、こと「敗戦」という事実が戦後の日本に与えたショックは非常に大きかった。そしてそれはとりもなおさず、日本における進歩主義的風潮を煽る大きな原動力となったのである。

 当時の気運を知る上で有用となる主張を以下に2つ引用する。

 漢字を廃止するとき、われわれの脳中に存する封建意識の掃蕩が促進され、あのてきぱきとしたアメリカ式能率にはじめて追随しうるのである。文化国家の建設も民主政治の確立も漢字の廃止と簡単な音標文字(ローマ字)の採用に基く国民知的水準の昂揚によって促進されねばならぬ。

 私は60年前、森有礼が英語を国語に採用しようとしたことをこの戦争中、度々想起した。若しそれが実現してゐたら、どうであつたらうと考へた。日本の文化が今よりも遥かに進んでゐたであらうことは想像出来る。そして、恐らく今度のやうな戦争は起つてゐなかつたらうと思つた。我々の学業も、もつと楽に進んでゐたらうし、学校生活も楽しいものに憶ひ返す事が出来たらうと、そんな事まで思つた。

 そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。60年前に森有礼が考へた事を今こそ実現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。森有礼の時代には実現は困難であつたらうが、今ならば、実現出来ない事ではない。

 この2つの主張から読み取れるのは、「これまでの日本はその一切が邪悪であり間違っていた、だから敗戦したのだ」という劣等意識の表出が、政治的・経済的議論の場のみならず、文化、とりわけ国語を巡る議論の場にまで広く及んでいたという事実である。欧米列強に追いつくためには全くの白紙状態から『新日本』再建を模索しなければならない、その際文化の根幹を成す「言語」を欧米のそれに近づけることこそが、文化的な国家をつくる上でなにより必要な要件となる、などといった極端な進歩主義的論調が、「敗戦」という圧倒的事実に依拠する形で俄然説得力を伴って罷り通り、当時の日本を代表する風潮として全国に蔓延したのである。

 当然、かねてから日本語の音標文字化を悲願としてきた文部省と国語審議会は、この風潮に大きく勢いづけられた。敗戦直後の1945年11月、さっそく文部大臣田中耕太郎が国語審議会に対して「標準漢字表」の再検討に関し諮問、「(標準漢字表再検討に関する)漢字主査委員会」が設置されたのである。(「標準漢字表」とは1942年、国語委員会が文部大臣に答申したもので、「常用漢字」1134字、「準常用漢字」1320字、「特別漢字」74字、計2528字よりなる。同表は「常用漢字」をもとにして、公文書、教科書などで使用する漢字の範囲を定めようという目的で決議されたものの、結局採用されないでいた。)また、音標文字化に向けては漢字だけでなくかなづかいの平易化も必要であると考えられ、のちに「仮名遣主査委員会」も設置された。(それ以外にも「漢字に関する主査委員会」「当用漢字音訓整理主査委員会」「義務教育用漢字主査委員会」「活字字体整理に関する協議会」「字体整理に関する主査委員会」「中国の地名・人名の書き方に関する主査委員会」「外国(中国)の地名・人名の書き方に関する主査委員会」「国語審議会の組織運営等の刷新に関する委員会」「国語審議会改組小委員会」が戦後相次いで設置されるが、「活字字体整理に関する協議会」と「字体整理に関する主査委員会」については後述、それ以外については本論での説明を割愛する。)